そのおじいさんは、「大昔、ここは海だったんだよ」と言った。
凪いだ海みたいな青いポロシャツで、美味しそうに白ワインを飲む人だった。
ここはシャブリの街。同じブルゴーニュでも、ディジョンの都市からは車で2時間弱くらい。ちょうどパリとの中間くらいの場所にある。
「シャブリかぁ。ここ10年とちょっとくらいで、いいワインの話となると決まって名前が挙がるようになったよな」と旅の道中をともにする友人に僕は言う。
白状すると、これはただの受け売りだ。日本でちょっと格好つけて行ったワインバーで、常連っぽいセンス良さげなおじさんがツレとそんな話をしていたので、そのまま僕の意見だったことにさせていただくこととした。
歳を重ねても頭と物腰が柔らかそうなおじさんの話には、耳を傾けておいて損はない。
それは、このシャブリでもやっぱり同じだ。
昼前には街の中心部に着いた僕らは、早めの食事をと、雰囲気の良いレストランに入ることにした。そこで出会ったのが、先のおじいさんだった。彼は子供の頃からこの地で育ったそうで、仕事を引退してからはこうしてアペリティフで見知った顔ぶれと昼間っからグラスを交わす時間をゆったり楽しんでいるらしい。
いわく、「ワインは全部好きだけど、ひとりで飲むことはない」んだとか。
「シャブリの畑を見たかい? 土が白かっただろう」。
ここへ来る道中でぶどう畑はいくつも通り過ぎたが、確かによくよく考えるとぶどうの木の根本の土が、今まで見たことのある黒々としたものじゃなく、景色全体がちょっと淡いトーンだったような気がする。
「シャブリの土は、大きく粘土石灰質土壌とキンメリジャン土壌っていうのに分かれるんだよ。何億年も前、ここは海でその頃の地層にはエビとかイカ、牡蠣なんかの貝といったような海の生き物が堆積して圧縮されているんだけど、それがキンメリジャン土壌。シャルドネは世界中のどこにでも植えられるけど、この土地質と気候条件だからシャブリはいい白ワインができるんだ」。
後から聞いた話だが、元々シャブリは年間平均気温が11度くらいと涼しいエリアで、ぶどうの栽培で言うとなかなか完熟せず、岩盤も硬くて耕作もしにくいためブルゴーニュの中でもイマイチというイメージを長らく持たれていたらしい。それが温暖化によって奇しくもぶどう栽培には良い条件になってきたのがここ20年くらいのこと。
なるほど、シャブリのワインがにわかに注目された時期とも重なるし、ワインバーのおじさんの話はやっぱり確かだったのか。
「ワイン好きは味を語るときに“ミネラル”ってよく言うけど、具体的な定義があるわけじゃない。そういう言われ方をするようになったのもこの20年くらいだと思うけど、特に白ワインじゃミネラル感のないものなんて滅多にないしね。だから言葉ばっかりが一人歩きしちゃってるけど、シャブリの白は本当のミネラル・エモーションが感じられるワインだよ」。
そう言っておじいさんが勧めてくれたワインは、キリッとした味わいで酸の利いた心地よいものだった。
なるほど、これがミネラル感か…!
実際、貝などの化石を多く含む土壌にはカルシウムやマグネシウムが豊富に含まれていて、まさにミネラルたっぷりなのだそうだ。
「でも、僕は白だけじゃなく、赤もロゼも好きで、ワイン全部が好きなんだ。ワインっていう文化自体がね。あぁ、でもイタリアがたまにつくってる甘口のスパークリング、あれだけはわかんないな」。
要約すると、ぶどうは糖分を使って発酵していくのに、それをあえて残してまで甘口にしてスパークリングをつくるなんて考えられへん、とのことだった。
おじいさんもヒートアップしてきたし、お腹も膨れてきたのでそろそろ頃合いかと、僕たちはお礼を告げてレストランの会計を済ませた。
まだまだ昼下がりの街はゆったりとしたムードで心地いい。
おじいさんの話もおもしろかったが、それ以上に飲ませてくれた白ワインがよかった。
確か、銘柄はシャブリ グラン・クリュ グルヌイユ シャトー・グルヌイユ。
“Grand Cru”の表記に一瞬たじろいだが、好奇心には勝てずご相伴に預かった次第だ。
ヴィンテージは確か2020年だったが、おじいさんが言うには「グランクリュは味が開くのにすごく時間がかかるんだ。2020なんて、まだ赤ちゃんみたいなものだね」とのことだ。
それでも美味しいあのワインがどこでできているのかが知りたく、そのワイナリーを僕たちは訪ねた。
ラ・シャブリジェンヌ。
意味はそのまま、“シャブリの人々”。
のどかでゆったりとした雰囲気のシャブリにあって、そのワイナリーの近代的なたたずまいに少し驚かされた。
案内してくれたのは、現代表のダミアン・ルクレールだ。
シャブリジェンヌが始まったのは1923年のことで、このシャブリのワイン生産者たちが集まり、組合として発足したのが最初だったそうだ。
「協同組合っていうと、あんまり良くないイメージを持たれることも正直あるんだ(苦笑)。規模が大きいだけだろうってことでね。だけど、シャブリジェンヌのワインは三つ星レストランでオンリストしているところも多いんだよ」。
ゆっくり歩きながら、彼は言う。大きな施設の入り口の前でダミアンは止まり、そのドアに手をかけた。
開いた先には、見たこともないような特大のステンレスタンクがいくつも並んでいる。
「このタンクは熟成用で、だいたい500万本分くらいのワインが入るよ。運ばれてきたぶどうはプレス機にかけられて、これとは別の縦長の発酵槽タンクに入れられるんだ。そこで冷却しながら紛れ込んだ不純物を沈ませて、上澄みのきれいな部分だけを発酵させていく。デブルバージュっていう作業だね」。
すごい規模だ。聞けば作付面積、リリース量ともにシャブリジェンヌはここシャブリのワインの約1/4を占めているらしい。名実ともにトップ生産者というワケだ。
「僕ら、シャトー・グルヌイユを飲んできたんだけど、あれは素晴らしいね」。
ダミアンに伝えると、彼はにこりと笑う。
「シャトー・グルヌイユは自分たちにとっても特別なワインだから、ここぞっていうシチュエーションで開けるんだ。せっかくなら美味しい料理を食べながら楽しみたいね。」。
シャトー・グルヌイユはさっきの特大ステンレスタンクではなく、また別の建物内にある樽で熟成されていた。
「オルレアンとブロアの街の間にあるロワールのお城、シャンボールがある森から採れた樫でできた樽なの」。
整然と樽が並ぶカーヴに足を踏み入れた僕らに、そう話しかける女性。
彼女が醸造責任者のエステルだ。
よくよく見ると、樽の栓にもしっかりロゴの刻印が入ってる。
彼らにとって特別なワインというのが、こういうしつらえにも現れているような気がする。
「ありがとう」と彼女に伝え、ダミアンが向かった先は社長室。
これだけ大きなワイナリーだ。さぞエグゼクティブな空間なんだろうな…。
建物のひとつのドアを開け、進むダミアン。階段を登り、道を曲がってまた階段を登る。
さっきまでのスケール感が嘘のようで、どんどん奥まった感じになっていく。
「ここだよ」。
通された部屋は、至ってコンパクトな場所だった。広めのデスクこそあるが、梁が見えた天井や年季が入ったように見える窓など、どちらかというと牧歌的だ。
「あんまりメディアの取材は受けないようにしてるんだ。やっぱり成功しているワイナリーっていうことで周りから批評されたり、嫉妬の目を向けられることも多いから。そういうものに晒されるより、自分の仕事に専念したいからね。僕はこの小さい部屋にいるから、放っといてくれって感じ(笑)」。
大規模なワイナリーの指揮を取る人間の葛藤が、少し垣間見られるようだ。
このダミアンは会計やマネージメントも修めているが、農業高校を卒業してから農業の専門学校へ進み、卒業後はパリの大学で実践科学を学んだという敏腕経営者にして、ひとりのワイン愛好家でもある。
「昔は特級畑のシャトー・グルヌイユの名前を使わないと、なかなかみんなに選んでもらえなくて苦労したよ。でも、それがきっかけになって今ではいろんな人にラ・シャブリジェンヌの名前を知ってもらえるようになった。だからこそ、シャブリジェンヌにとってシャトー・グルヌイユは特別なワインなんだ」。
そうか、シャトー・グルヌイユはラ・シャブリジェンヌにとってはフラッグシップであり、出世作みたいなものなんだなとなんだか妙にしっくり来る。
「今じゃ『シャルドネいかがですか?』じゃなく、『シャブリいかがですか?』と言ってワインをサーブするところもすごく増えてきたんだ。同じシャルドネでも、シャブリは別物っていう認識が少しずつ、世の中に広まってきた。すごくそれが誇らしいよ」。
そういえば、おじいさんと一緒にいた人たちが言っていた。
「同じブルゴーニュでも、コート・ド・ボーヌのプレステージ級のグランクリュとシャブリのトップ生産者のグランクリュだと、値段にとんでもなく差があるんだ。マジで一桁違うんだよ」。
どんどん評価が進み、認知も広がっているシャブリ。需要が高まれば、価格が上がってしまうのが世の常だ。
「これだけ品質のいい白ワインをつくっているのに、まだ手を出しやすい値段で楽しめるのは、もしかしたら今だけかもね」。
シャブリのワインは今もなお、急成長の過渡期にいるんだろう。
「一昔前はなかなかぶどうが完熟しなくて、いったいいつになったら収穫できるんだってやきもきしながら待ってたけど、今は逆に気温が上がってきていいぶどうが育てられるようになった反面、ミネラル感や酸味がしっかりあるシャブリのワインのバランスが崩れやすくもなってるんだ。ぶどうの完熟度が上がると糖度も上がるからね。そのバランスを見極めるのはすごく難しいよ」とダミアンは言う。
有頂天になってもおかしくないはずの人気ワイナリーのトップは、しっかりと地に足が着いていた。
とは言え、そこは一流のビジネスマン。豪胆なところだってもちろんある。
「少し前に、25キロくらい離れた場所にある閉鎖した採石場を買い取ったんだ。石でできた地下空間なら、エアコンや人為的な調整に頼らずに安定した湿度と温度でワインをじっくり熟成できるからね」。
ダミアンは、自社のワインの伸び代を熟成に見出したようだ。
「シャブリジェンヌは畑の管理も徹底してるし、醸造テクニックも近代的なもの。あとはあるとしたら、瓶内熟成期間じゃないかと思ってるんだ。だからそのストックで、瓶詰めしたワインをグランクリュなら4〜5年、プルミエクリュで3、4年くらい寝かせたい。グランクリュ本来のポテンシャルを感じてもらいたいっていつも思ってるんだけど、みんな早く飲んじゃうからね(笑)」。
あのおじいさんが4年やそこらのヴィンテージを「赤ちゃん」と言ったのは、どうやらこういうことだったらしい。
もうひとつ、ダミアン社長の近年の経営戦略で顕著なのがパリ4区、サン=ポール駅で開いた、自社製品だけを取り扱うワインショップだ。
「パリでワインを飲んでくれた人が“シャブリってどんなところなんだろう? 行ってみたいな”と思ってくれたら嬉しいよ。もっとシャブリの良さを多くの人に知ってもらいたいから、そういうエノツーリズムみたいな部分には、これからも力を入れていくつもりだよ」。
アペリティフを楽しむ市井のおじいさんから経営者まで、このシャブリでワインを愛する人たちはみんな情熱的だ。
「この社長室は、窓からグランクリュが見渡せるんだ。行き詰まっても外の畑を見てるだけで癒されるし、いろんなインスピレーションを与えてくれる。最初は社屋が古くて雨漏りしてるから、その原因を調べてるときに気づいた空間だったけどね(笑)」。
窓の傍には、100年前に実際に使われていたという、シャブリジェンヌのポスターが貼られている。ワイン好きにとっては急先鋒かも知れないが、やっぱりこの地は確かなストーリーの先で、脚光を浴びるようになったのだろう。
ダミアンたちに別れを告げて、帰る途中。車中でそんなことを思いながら窓の外を眺めていた。
小高い丘に差し掛かったとき、運転していた友人がふと車を停めて外へ出た。
促されて外へ出た僕が見たのは、スラン川の対岸に見渡せる一面の畑だった。
「あのほとんどがグランクリュらしいよ、すごいよな」。
“カエル”を意味するグルヌイユの畑も、あのどこかにあるのだろう。
シャブリのこの景色と白ワインがこの先もずっと身近であり続けてほしいなと、白い畑に僕は願った。
--Photo gallery--
写真・高橋 ヨーコ/文・今野 壘